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2011年9月27日 (火)

戦国武将・蒲生 氏郷・ 限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風

石田三成の家臣には蒲生性が多い。蒲生氏郷が亡くなった時に浪人した蒲生家浪人を抱えたようだ。
特に蒲生頼郷・蒲生郷舎とかが有名だ。関ヶ原では奮戦した!
となれば氏郷本人が先頭になって戦っていたら凄かったと思う。
昔から興味があった武将の一人だ!
近江日野・伊勢松坂・会津若松は、皆行った。氏郷が目的で行ったみたいなもんだ!
何か興奮した事を覚えている。

家康嫌いで、名護屋で家康と利家の部下が争った時、真っ先?に利家側についたようだ。
一番印象に残っているのは、司馬遼太郎 「覇王の家」 の小牧長久手の陣の話だ。
古来兵は田舎が強い。日本では九州と東北が強い。僻地ほど強い。粘り強いからか?
東海でも尾張は弱く三河は強い。尾張は商業都市で、三河は田舎だ!
戦場に出てくれば三河兵は強い。尾張兵は弱い!
と言う事だが、蒲生氏郷が連れている近江兵は、三河兵に恐怖を感じず、むしろ泥臭さを感じていたようだ!
恐れるどころか軽蔑?していたようだ。
氏郷が家康と三河兵を恐れていないので兵も恐れない!
そう言う自信が 「猿メ、狂ったか!」 と秀吉の事を言ったのかもしれない。
と言うより自信過剰だったのだろう。惜しい!


蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(或いはレオ)。子に蒲生秀行。

①奇癖として有功の家臣に蒲生姓を乱発し、家中に稀少なるべき同名衆を大量生産し、前田利家にたしなめられている。蒲生家中に蒲生姓の家臣が多いのはこのことによる。

②氏郷は月に一度家臣を全員集めて、自らの屋敷で会議を行い、この時の会議は「怨まず、怒らず」が約束事となっており、氏郷自らが風呂を沸かしたり、料理を振舞ったと言う。

③氏郷は天下に対する大望を持っていたとされ、あるとき側近を集めて秀吉亡き後の天下人が誰になるかを語った。血統や年齢での順序ならば秀吉の甥で養子の秀次であるが、氏郷は秀次を「彼の愚人に従ふ者誰かあらん」と酷評した。徳川家康の名を出すと、「彼の人は吝嗇に過ぎる。天下を得(る)べき人にあらず」と評した。次に前田利家の名を出すと、氏郷はようやく頷いた。そして「加賀少将(利家)は御高齢。もし(利家が天下を)得ずば、我が得るべし」。

④西村某という家臣が軍令違反を犯しながらも武功を立てた。しかし氏郷は功を認めながらも軍令に違反したとして西村を家中から追放した。だが西村は氏郷を尊敬しており、しばらくして氏郷に帰参を願い出た。氏郷は帰参の条件として「わしと相撲を取れ」と言い出した。西村は応じて氏郷と相撲で対決し投げ飛ばした。周囲の家臣たちは顔色を変えて「帰参したいのならわざと負けたほうがいい」と忠告した。が、西村はまたも氏郷を投げ飛ばした。だが氏郷は怒らずむしろ笑いながら「お前は浪人している間に根性が卑しくなっているのではないかと思っていたが、どうやら昔のままのようでよかった」と帰参を許したという。

⑤大和の筒井順慶の家来で、松倉権助というものがいたが、何が原因か家中で臆病者の噂が流れ、家に居にくくなり、氏郷のもとへ訪れ  「拙者は臆病者と言われておりますが、良将のもとでは使い道があると存じますので、お召抱え願いたい」 と言うと、氏郷は「正直者で見どころがある」と召抱えましたが、まもなく起こった戦で松倉は、目覚ましい活躍をして名のある首を上げ、「目がねに狂いはなかったわ」と氏郷は二千石をあたえ物頭にしました。感激した松倉はその後直ぐの戦で、最も勇敢に戦いましたが、敵陣深く入りすぎ討取られた。 「松倉は剛勇で、久しく人の下に置いておけないと思い、取立てを急いだが、恩に報いようと無理な戦いをして死なせてしまった。もう少しゆるゆると取立ててやれば良かったのに、おれの思慮が浅かったため、あったら武士を失った。」と近臣らに語り、はらはらと涙を流したらしい。  

                                     
⑥佐久間久右衛門安次という者が召抱えられ、初めて氏郷と面会するときに緊張をしていたのか、畳の縁につまずいて転んだ。近習の小姓たちはクスクスと笑い、面目を失った佐久間は下を向いていたが、氏郷は「わいら子供の分際でなにがわかる。佐久間は畳の上の奉公人ではない。千軍万馬の間を駆抜け、敵の勇士を討取るのを職分とするものだ。わいら座敷奉公の者が、佐久間を笑うとは何事だ。」と叱りつけたので、佐久間は涙を流して感激した。以後の戦で命を惜しまず戦った。

エピソードは沢山ある。自信家で部下思いでもあったようだ!
関ヶ原の合戦の時生きていれば面白い存在になっただろう。
二郎は好きな武将の一人だ!

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