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2011年9月26日 (月)

戦国武将・関ヶ原の合戦・松野主馬・忠義者

藤堂高虎を調べていたら、湯浅五助・藤堂高刑が出て来た。
この二人は、二郎は気に入っている。
同じ関が原で、こう言う武将もいたんだな、と思った武将がいる。松野主馬。
この名前はやはり司馬遼太郎 「関ヶ原」 で知った。好意を持った。生き方が単純である。
坂の上の雲、秋山好古に通じる。
秀吉に陪臣でありながら声をかけられ感激したと言う。

関ヶ原の合戦は、豊臣家対家康の戦いと見て、恐らく秀秋が徳川の陣への攻撃を命令すれば、血刀をさげて切り込んでいただろう。男として、この関ヶ原に出陣したらならそう思うだろう。
経歴は下記の通りだ。

松野 重元(まつの しげもと)は、戦国時代の武将。初名は正重か。通称は平八。豊臣姓を与えられている。父は土岐氏に仕えた松野重定と思われる。正確な官名は主馬首であり松野主馬、あるいは号を「道円」と称し、松野道円入道として知られる。兄に本能寺の際に信長の追い腹を切った松野平助がいる。
豊臣秀吉に仕え、丹波国に300石の領地を得る。小早川隆景の養子となった木下家定の五男秀俊(のちの小早川秀秋)が丹波亀山から筑前名島へと移封になった際、秀吉より特に小早川氏に付けられて鉄砲頭を務めた。その際、秀吉から豊臣姓を賜っている。

関ヶ原の合戦では、小早川秀秋は寝返った。が主馬は反発した。
当時は主人を見限る事が出来たようだ!
戦いに加わらない。が臆病者と言われるの業腹なので、手勢を率いて戦場を傍観する。
鉄砲弾が飛び交う戦場にいるのは勇気がいる。
これが忠義者として評価されたようだ。
当然と言えば当然と言える。

戦後は田中吉政(これも豊臣恩顧の武将)に仕えた。改易後、徳川忠長に仕えたが改易。
主君には恵まれなかったが天寿を全うした様だ!
同じような行動をとった武将に、秀吉と光秀の争いで、洞ヶ峠を決め込んだといわれる筒井順慶、細川藤考。
秀吉と勝家の争いで戦わず引き揚げた前田利家がいる。
彼らは勝つ方についたがために、後世に「勝ち馬」と呼ばれる。
が、松野主馬のように負けようとも忠義を貫いた行動の評価は高い。
こういう生き方をしたい。

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