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2011年10月26日 (水)

戦国武将・毛利勝永・海から来た男

やはり司馬遼太郎だ。
先日 「乱世が好き」 を読んだ。そこで備中高松城の水攻めの事が書かれていた。
この場面は「播磨灘物語」 が愁眉と思う!本屋で立ち読みをしてしまった。
備中高松城落城後、毛利との人質の交換で森の名前が出て来る。
その中で、毛利輝元に気に入られ、森から毛利の名前に変えたとあった。
実際に変えたのは事実のようだ。
その一族になるようだ。
この武将は 「城塞」 にも出て来る。

天正5年(1577年)、毛利勝信の子として尾張国に誕生する。父の勝信と共に豊臣秀吉の家臣として仕えた。天正15年(1587年)、父勝信は豊前国小倉6万石(一説に10万石)、勝永にも豊前国内に1万石(4万石とも)を与えられ、この際、秀吉の計らいによって森姓を、中国地方の太守毛利氏の姓に改めている。

以下は城塞からの話だ!
父から勝永は言われたそうだ。
家柄も無く、秀吉に仕えて為、秀吉の出世とともに大名になった。
元は百姓であり、土からこねられ人形になり、秀吉のおかげで大名までに出世した。     
何かあれば元の土に戻るだけだ!
秀吉の為に尽くす様にと、勝信に言われていたようだ。
秀吉もこう言う家臣がいる事を忘れていたのでは無かった。
東海地方に並べた、対徳川用に置いた大名は見事に家康についた。
山内一豊。田中吉政。福島正則・・・・・・・

関ヶ原の合戦後、土佐山内家に預けられていた。
大阪に陣の時、大阪城に入場しようとしたが、山内家に迷惑をかける。
ここで田舎芝居をしたようだ。その為の犠牲は一人で良い。
その役目になる勝永の重臣は分かっている。
山内の黙認のもとに、勝永を逃がし、責任を一身に背負った。
土佐から出た時腹を切ったようだ。
山内家も了承していた猿芝居のようだ。
しかし逃げた事情は家康に説明したようだ。
ある程度の処罰は覚悟していたようだが、家康はむしろ毛利勝永の攻略を褒めたそうだ!
「勇士の志、殊勝である。妻子を罪に問うてはならぬ」
山内家はお咎めなしだったらしい!
家康も下手に処分すれば土佐の事だ。前大名の長曽我部盛親が大阪城に入城している。

ヤバい事になるのを恐れたのでないかと、勝手に想像出来る。
ここら辺がタヌキ親父である。
大阪の陣では活躍したようだ!
有名ではないがこう言う武将は好きだ!

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