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2014年3月28日 (金)

細川幽斎・忠興親子は相当な人物なのか? 

最近黒田官兵衛関係の本をよく読む。
そのついでではないが、やはり竹中半兵衛は良く出て来る。
それと意外な事に細川幽斎・忠興親子がよく登場する。
あまり頭は良くないので文献までは読まないが、小説とかでは知っている。
先日、「司馬遼太郎 街道をゆく(34)中津・宇佐のみち」に興味ある話があった。
中津は黒田官兵衛が入った。
13年後に福岡に国替えになる。52万石と言うが実収100万石と言う。
そしてその後に細川忠興が入った。39万石と言う。
忠興は堤を築いて、川からの浸水が無いようにした。
これを家臣団でやったそうだ。忠興自身が現場監督をしたと言う。
完成後、人々は細川主従でこの工事を行ったと言う事を忘れるでしょう!!!!
家臣は暗に三斎堤とでも名付けたらどうかと言ったようだ。
信玄堤とか残っているが・・・・・・・
が忠興は「この堤の利は長久である。名などどうでもいい!」
エライ!メチャメチャカッコいい!
忠興のファンにはこたえられない話だろう・・・・・

細川忠興のイメージはやはり司馬遼太郎で固まった。
癇癪持ちなのか?気が短い!
戦場では勇猛である。
関ヶ原で黒田長政と並んで石田三成と戦った。
ガラシャが話しかけた庭師の首をはねた!
返り血が付いた着物を着続けた。
おまえは蛇か?
鬼の女房には蛇が似合いだと。
田辺城にこもる父幽斎が和睦したことに対して批判したようだ。
政治力もあると感じている。
秀吉亡き後、利家と家康が対立した。
後に三成を襲う七将もこの時は分かれている。
利家に、加藤清正・浅野幸長・細川忠興が付いた。
家康に、福島正則・黒田長政・藤堂高虎が付いた。
両者の和解に奔走したのが忠興とある。

一色家の謀殺。これは何も忠興だけが問題ではないが、戦国武将である。
関ヶ原の合戦時、まずガラシャを殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように!
これは普通の命令だったようだ。もっとも逃げた家臣もいるが・・・・・・
何も忠興だけがそうした訳ではない。
がここで又黒田家と比較される。
黒田家は知略を用いて脱出に成功している。

「司馬遼太郎 宮本武蔵」ここに厳流佐々木小次郎と武蔵が戦う事を忠興が許可する。
忠興は小次郎の実力を試したい。
万が一敗れれば小次郎が可哀想?
忠興は、芸者(兵法者)は技術のみで世に立っている。
技術が劣れば落命するのは当たり前と言う。
ちょっとむごい感じがしないでもないが・・・・・
そんな事が記述されている。

武将列伝がある。
細川藤孝は登場するが、忠興はまず登場しない。
そう言えば黒田長政も登場しない。後藤又兵衛のほうが登場する。

南条範夫、武家盛衰記の最初の武将は細川幽斎である。
幽斎は時世を見る眼はある。足利・織田・豊臣・徳川と生き抜いた!
光秀にも組しなかった・・・・・・
織田信長と同じ午の年の生まれである。
それを信長に聞かれた時、満座の中で言ったようだ。
『同じ午の年でも、上様は金覆輪の鞍を置いた馬。私は小荷駄馬でいつも背中に重い物をしょっております』
なかなか言える言葉ではない。
藤堂高虎が言いそうな言葉か?
親子そろってしたたかだったんだと思う!

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