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2014年12月16日 (火)

九州の関ヶ原(28) 筑後久留米城 有馬記念は久留米城主の子孫・・・・・

とうとう久留米まで来てしまった。
この後、佐賀城、柳川城、江上・八院の戦いまで行き来たかったが時間切れである。
年内に来れるようであれば来てみたい!!!!

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関ヶ原の合戦時は、小早川秀包が城主である。
毛利元就の実子であり、隆景の養子である。
小早川秀包は西軍に付く。
九州征伐後、隆景が名島城主になった時、筑後3郡7万5千石を領した。天正15年に久留米城を築き居城とした。
関ヶ原の合戦では、良く戦ったようだ。
が肝心の関ヶ原では、秀秋の内応や吉川広家・毛利秀元の日和見行為により西軍が敗れる。
その後大津城を撤退して大坂城に帰還する。
この時、官兵衛が九州の関ヶ原を戦っていて、久留米城は官兵衛、鍋島直茂率いる37,000の軍に攻撃を受けていた。
城中には宿老桂広繁、白井景俊以下わずか500の兵しか残っていなかったが、数日城は持ちこたえた後、両人は開城勧告に応じた。

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そう言う話は案内には無かった・・・・・・・
筑後は、田中吉政が柳川に35万石で入ったが、改易。
久留米城は柳川城の支城となっていた。
1621年、丹波福知山城主有馬豊氏が21万石で封じられた。
幕府の御墨付きを獲た豊氏は隣国筑前黒田家の助力も得、筑後の要の城に相応しく、大規模に城を拡張した。
以後、明治維新まで久留米は西国の大藩である有馬氏の居城となった。
有馬氏は摂津の出身か?
久留米で久留米有馬氏が始まる。

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有馬氏が造った城と言ってよいので、城址としては案内は有馬氏で良いのか?????
なんとなく割り切れないが・・・・・・・
相当な城だったようだ。
堀、石垣を見ても分かる。
場内には篠山神社がある。

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「有馬記念」は、有馬氏から取っている名前のようだ!
15代当主有馬頼寧は、大正・昭和期に活動した政治家であり、農政・教育・社会事業やスポーツに携わる。
日本中央競馬会、第2代理事長としてファン投票による出走馬の選定という当時前代未聞の画期的な選抜方法を考案し、
「有馬記念」にその名を残している。
面白い話である!

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