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2014年12月 4日 (木)

軍師官兵衛(番外編⑩秀吉の家臣)秀吉の晩年は寂しかった??

秀吉は出身が出身なので、元からの家臣に恵まれない。譜代の家臣がいない。
のし上がっていくにつれて優秀な家臣が欲しいがそんなにいない。
他家の家臣に手を出す。
家康の重臣、石川数正。本多忠勝。
大友宗麟の家臣、高橋紹雲立花宗茂
島津の新納忠元。
伊達の片倉小十郎。
直江兼続も手を出されている。
もっといるだろう・・・・・・
例えば秀吉自ら、家臣にの領土を主君に命じて決める場合がある。
直江兼続もそうであるし、細川家家臣・松井康之、島津家家臣・伊集院幸侃、堀家の堀監物らがいる。
自分の手足となる有望な人がいない。
半兵衛、秀長、小六と亡くなってからは余計にそう感じるが・・・・・・
動かす兵が多くなる。
秀吉一人で指揮出来ない。
軍監が必要になる。
これに人がいない。

四国攻めは官兵衛が軍監を勤めている。
九州攻めがある。
官兵衛は隆景らと侵攻している。
仙石秀久は、先の四国征伐の功で讃岐高松10万石の領主となっていた。
官兵衛はまだ中津18万石を貰っていない。
九州攻めでは軍監を努めた。
戸次川の戦いがある。12月12日 (旧暦)早朝、戸次川を挟んで両軍が対峙した。
島津戦法の「釣り野伏せ」に誘われ、仙石勢は遁走。
軍監、仙石秀久は諸将の軍を差し自領の讃岐へ逃げ帰る。
四国勢は長曽我部元親・信親親子がいる。
四国を制覇した実力者である。
仙石秀久はコンプレックスがあったのだろう。
元親の言う事を聞かなかったようだ!

尾藤知宣が仙石政秀の後の軍監を努める。
根白坂の戦いがある。長篠の合戦のようだと言われている。
豊臣軍は8万、島津軍は3万5000。
島津軍では大将の島津義弘が自ら前線に立って戦ったようだ。
豊臣軍は宮部継潤らを中心にした1万の軍勢で堅守。
秀長の本隊が救援にきたが、軍監の尾藤知宣は救援は不可能。
島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長は救援の中止を受け入れた。
しかし、秀長麾下の藤堂高虎に、小早川・黒田勢が挟撃をしかけたため、島津軍は敗走。(尾藤はこの時の消極的な姿勢を秀吉に責められ、追放。後に処刑された)

こうなると家臣には恵まれていないのかと思ってしまう!
たまたま秀吉の出世と共に、家臣も出世する。
信長から与力として秀吉に付けられる。
柴田勝家のところに行った家臣もいる。
これも運なのか?
山内一豊なんか良い例であると思うが・・・・・
家康は関ヶ原で軍監として、井伊直政・本多忠勝を派遣している。
名前だけでも秀吉と差がある感じがする。

秀吉の家臣となった、蒲生氏郷は心情的には信長の家臣である。
海音寺潮五郎が記述しているが、寂しい晩年だったんだろう・・・・・
うわべは華やかであるが・・・・・・

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