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2016年11月24日 (木)

猛将・福島正則 司馬遼太郎より

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先日正則の生誕地、あま市に行った。 真田巡りの一環である。
あま市では英雄である。 人殺しとも言うが………
正則の遺産で食べている??
戦国武将の事は大概、司馬遼太郎で知識を得ている。
福島正則もそうである。
「短編 愛染明王」「新史 太閤記」「関ヶ原」「城塞」………
大酒飲みで酒癖が悪かった。 昼間からでも酒を飲んでいる。
泥酔して家臣に切腹を命じ、翌朝になって間違いに気付いて、その家臣の首に泣いて詫びたという逸話もある。
恐妻家であるようだ??

自ら天下を狙う器で無いと認めている??
秀吉、家康の為に戦っている。
家康の次男、結城秀康に 「天下に事あればあなたに付いて行く!」
と言った話は面白い!
秀康には果断さがあると言う!
そこが正則が気に入っている??
家康は関ヶ原の合戦後に、後継者の相談を重臣としている。
秀康、秀忠、忠吉である。 武将としての能力は秀康が高い!

関ヶ原の小山評定はあったかどうか分からないともされている???
小山評定で真っ先に家康に味方すると発言した。
もっとも黒田長政に言い含められているところはあるようだが………
先に岐阜・清須の方まで行っているが肝心の家康が来ない。 信用されていない!
「戦ってみろ!」 と家康の使者に挑発されて、怒るどころか興奮して真っ先に戦った!
この時も池田輝政と先陣争いで揉めている。

関ヶ原では宇喜多秀家17,000の兵と先陣を切って戦った。
井伊直政と忠吉が抜け駆けをしている。
正則の陣を抜け駆けするとはよくやるとよくやる!!
宇喜多秀家はその前に家中が揉めていて戦力は下がっている。
が明石全登が先鋒を努め、正則の軍を切り崩している??

関ヶ原の合戦前に、会津上杉景勝の元に使いとして行ったのが、伊奈昭綱!
官僚としては有能だったようだ。
正則は関ヶ原の戦いの後、山城国日岡の関の守衛となり、家老・佐久間嘉右衛門を伏見城の家康の下へ使者として派遣した。
伊奈昭綱の家人は通行証を所持していないことから関の通過を認めなかった。
嘉右衛門は正則の下へ戻り、面目を失ったとして自害した。
正則は嘉右衛門の首を家康に送りつけ、関の責任者である昭綱の切腹を要求した。
家康は追い返した家人を処刑させてその首を届けさせが、正則は要求を取り下げなかったため、家康は昭綱を切腹させ、その首を差し出すことで解決をみた。
実際はどうなのか??
伊奈昭綱は切腹を拒んだが、家康の意を受けた家臣に首を刎ねられる??
この時に徳川方は豊臣恩顧の七将に仲裁を頼んだが、皆関わり合いになりたくなかったようだ。
浅野幸長、黒田長政、細川忠興、池田輝政………(清正は九州である。良かった)
正則が言い出したら聞かない。 と言う事で断られたようだ。

関ヶ原後、安芸49万石に出世した。 実収70万石と言う??
幕府の命で名古屋城の手伝普請に従事している時に、
「江戸や駿府はまだしも、ここは妾の子の城までコキ使われたのでは堪らない」とこぼしたようだ。
加藤清正が怒りながら「築城が嫌なら国元に帰って謀反の支度をしろ。それが無理なら命令どおりに工期を急げ」とたしなめたという!!

豊臣時代に領国が良く収まっていたのが、
近江佐和山、石田三成。
肥後熊本、加藤清正と言う。

ただ正則も領国経営ではすぐれていたと言う。
自身が得意でないので余計に慎重になったのか??
組織を造る力はある??

正則は自信家であるのだろう………
池田輝政は家康の娘を貰っている。
「わしらは槍働きで、輝政は一物で領国を増やした」
賤ヶ岳七本槍の一人、脇坂安治がいる。
「あの程度が貂の皮のゆきどまりよ!」
なかなか言えないセリフである!
が、賤ヶ岳七本槍で幕末まで大名として残ったのは脇坂安治と言う!
平野長泰は5千石である。大名ではない!

細川忠興は、千利休のことを慕っていた。
が正則は、「得体の知れない茶人の千利休」っと思っている。
忠興に誘われ利休の茶会に参加した。
「利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」 と言ったようだ。
がこれはどうかなと思うが………

八丈島に流された宇喜多秀家に、正則の船が流されて会い、酒と米を渡したようだ。
正則に帰って報告したら褒められたと言う!

秀頼と家康の会見の実現に清正、浅野幸長と努力した。
大坂の陣では何も出来ずに、蔵屋敷の米を大坂方が撤収するのを黙認したようだ。
大坂城落城後、妙心寺の石川貞清から妙心寺内の土地の一部を譲り受けて海福院を建立し、死者の冥福を祈った。

家康が重病で死の床に就くと、正則は駿府を訪れて見舞った。
家康は「将軍家に不服があれば、遠慮せず、兵を挙げられるが良い」と冷たく言い放った。正則は「今日までご奉公に努めて来たにもかかわらず、あのような申されようは情けない限りだ」と嘆き、人目も憚らず泣いた??
家康は「その一言を吐き出させるために、あのように言ったのだ」と安心したという。

家康亡き後、徳川の官僚に取り潰されている!
その時に広島城に籠られたらどうなっていたか??
面白いifではあるが………
「あの程度が、桶屋のなれの果てよ!」
司馬遼太郎もそこまで言っていないようだ!

真田丸での出番は、大阪の陣でもあると思いたかった………
少しの、ほんの少しの出番はあった………

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