真田幸村 紀行

2016年10月30日 (日)

真田紀行4日目 結城市~茨木空港~神戸空港へ

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旅行は順調に終了。
結城市から茨城空港へ行く。
渋滞も無く順調に車は走る。
空港に近づくにつれて、何も無い!!

しかし帰りは満席である。
利用客が多いのは良い事である。
空港にお土産物屋や軽く食事出来るところがある。
あまり食欲をそそらないが………
帰りは飛び立つと直ぐに眠り、着陸前に目を覚ました!
スカイマークは初めてだった。
今後また使う事もあるだろう……
ご苦労さんでした!!

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真田紀行4日目 戦国武将・結城秀康

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と言う事で結城秀康である。
武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。
1574年、徳川家康の次男として遠江国浜松で生まれた。母は家康の側室の於万の方。

幼名を於義伊と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。信康のとりなしである。
1584年の小牧・長久手の戦いの後、家康と羽柴秀吉が和解するときの条件として、秀康は秀吉のもとへ養子として差し出される。

秀吉の人質時代、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。
秀康は無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を褒めたという。
この果断さが世の人気者している!!
福島正則が、天下に事あらばあなたに付いて行くと!!

関ヶ原の合戦後、後継者を誰にすべきか質問したとき、本多正信は秀康を、
井伊直政は忠吉を、大久保忠隣は秀忠を推したと言う!
これは出来合いレースとも言われている。当然家康と正信である!

関ヶ原後、越前で60万石以上になった。
越前と言うのが微妙なところである?
大坂―秀頼、彦根―井伊直正、越前―秀康、加賀―前田家。
秀康はどう動くか分からな??

秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になる。
秀康が観客席から立ち上がった。騒ぎは一瞬で静まったと言われている。
立ち上がっただけである!! この才能は戦場で発揮される物と言う!
この秀康の威厳には家康も驚いた。
が家康は秀康を恐れた??

それが毒殺になった?? 彦根でである。
ここらは戸部新十郎の本である。 実際はどうなんだろう………

鉄砲を所持したまま江戸に向かおうとして、碓氷峠の関所で止められた。
強引に通過したが役人が騒ぎ立てた。 
役目に忠実な態度とは少し違う。
その場で何もしなくて、後で騒ぎ立てる。 そんな役人は何処にでもいる。
このため関守は江戸に伺いを立てたが、秀忠は、秀康に殺されなかっただけ幸いであったと思え!!

秀康は天下三名槍の一つである駿河嶋田の鍛冶師義助の傑作御手杵を所有していた。
養父・晴朝から譲られ、槍身全長210cm、穂先が138cmで、常人には扱えない!

晩年、梅毒を患い鼻が欠けてしまった。
不遇な生涯だったのか??
そんなことは無いだろう………

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真田紀行4日目 下野・結城朝光の墓 称名寺

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結城 朝光は、平安時代末期から鎌倉時代前半の武将で、鎌倉幕府の有力御家人。
小山 朝光と記されている場合もあるが、結城家の家祖であるため、後の名乗りである結城朝光の方が、世上よく知られた名前である。
鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする小山氏の流れであり、父は下野国小山の豪族・小山政光。

所在地が人名である。
天下の旗にそむいて
永享7年、1435年からの鎌倉公方足利持氏と補佐役の関東管領上杉憲実の対立から永享10年に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。

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乱後に6代将軍足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、永享12年に持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。

幕府方は永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲し結城氏朝は敗北し討死、持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺された。

関ヶ原巡りで、池田輝政の陣跡に行った。
ここにこの春王丸、安王丸の説明があった。垂井町である。
13歳と11歳で辞世の歌を詠んでいる!

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しかし高名なのは結城秀康である。
この結城氏の本拠である。
これは行かなければならないと言う事で計画に入れた!

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真田紀行4日目 下野・結城城

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結城氏の居城である。
城址は公園にあり、案内板がある。
分かり難い! 案内も何もない!!

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真田紀行4日目 下野・健田須賀神社

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今回は須賀神社が多い。
沼田、小山、結城とあった。

工事中である!
ここで結城秀康のポスターを見た。
「結城市民劇団」つむぎの公演である。
結城秀康の生涯を辿るようだ!!
やはり秀康である!!

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結城秀康の公演です!!

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真田紀行4日目 栃木県 結城駅

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栃木市・結城駅
この駅は新しい。
駅の両出口に人は感じられない。
北口の方に案内所もあり、巨大な建物でもあり施設がある。
図書館になっている。
蕪村の句碑があったのには驚きである。

駅のまわりは高いビルも無く静かである。
繁華街はここではないのだろう………

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真田紀行4日目 昼食 忍城址~結城市の途中です!!

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昼食をうどん屋でとった。
奥さんが走っていて見つけた店である。
「山田うどん」
ラーメン屋でもない。うどんに丼もやっている。
チェーン店のようだ。 お客さんは多いみたい。 皆良く食べる。
セットメニューがある。
かき揚げ丼のラーメンセット700円
ミニカツ丼セット600円を頼んだ。

あとで分かったが。チェーン店である。

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真田紀行4日目 武蔵・忍城址 水攻めの城

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ここに来ると、旗竿がひしめいている。 忍城祉で食べている???
1590年、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。
氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった。
豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸、信繁父子らも加わった。三成は、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定した。
しかし忍城はついに落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。

備中高松城、尾張竹ヶ鼻城、紀伊太田城、武蔵忍城と水攻めの城として有名である。
全て秀吉が絡んでいる。
備中高松城    秀吉VS毛利
尾張竹ヶ鼻城   秀吉VS雑賀衆竹ヶ鼻城主不破広綱
紀伊太田城    秀吉VS雑賀衆
武蔵忍城      秀吉VS成田泰季

三大水攻めか、四大水攻めなのか?
土木工事の極地である。
人を動かすのが上手い秀吉だから出来た??
武蔵忍城は秀吉が水攻めにこだわったようだ!!
力攻めより水攻めを優先させた。
金も時間もかかるが……… そして人間の労働力もかかる。
三成は総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設した。
結局この失敗が三成の戦下手と言う評価になっている。
実際はどうなのか?
力攻めにしておけば落城していたとも聞くが………
結局三成が戦下手と思われた攻防戦である!!

水攻めは堤防も崩れるし、敵も崩しに来る。
忍城も堤防が決壊したようだ?

城跡は資料館になっている。写真撮影はダメである!!!!!
模擬御三階櫓、鐘楼がある。

江戸時代に、白河、忍、桑名と3つの藩の移動があったようだ。
来れてよかった城である!!

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資料館の模型

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厠の案内!

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真田紀行4日目 埼玉県行田市・行田駅

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駅は新しくもない。
行田市大字埼玉(さきたま)は、古くは『万葉集』に「さきたまの津」という記述があり、『風土記』にも「武蔵国埼玉郡(さきたまごおり)」とあるように、「埼玉県」という地名の発祥地であるとされる。
それが駅の案内にも書かれている。  この町の売り物である!!

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江戸時代中期より、下級武士の内職として足袋の生産が始まり、明治時代を迎えて機械化され一大産地となる。戦後は洋装化が進んだため衰退したが、今でも生産は行われているほか、足袋から転じた繊維産業が地場産業として一定の地位を占めている。
そう言う資料が、資料館にもあった。

駅は大きくは無く、賑わいは無い!
駅前にからくり時計があった。
壊れているとの事である! タクシーの運転手が教えてくれた!
こう言うのはよくある話である! 造った時にメンテの事を考えていない!!

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街中には道路に、写真のようなものが並んでいる。

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真田紀行4日目 下野 栃木城

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栃木城址まで行ったが、江戸時代の初期に破棄されている。
1591皆川広照によって築かれた。
広照は1590年豊臣秀吉による小田原討伐で小田原城に籠城していたが、居城の皆川城は豊臣秀吉の軍勢によって落城した。広照は徳川家康を介して秀吉に降り助命された。
皆川城にかわって築いたのが栃木城で、その後家康の六男松平忠輝の家老となる。
1603年忠輝が信濃国川中島へ移るに従い、広照も信濃国飯山城へ移り廃城となった。

ここも有名ではない! 標識もない! 奥さんのカンでたどり着いている??

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